ザミャーチン「われら」(岩波文庫)を読んだ。

夏休みは積ん読本の読破に最適。

というわけで、ザミャーチン「われら」を読んだ。

共産主義社会の行き着く未来の暗黒を描く寓話としては、ジョージ・オーウェル「1986」が真っ先にあげられるけれど、本作のほうがSF作品としては詩的表現が多く、ディストピアユートピア?)のイメージを捉えるのが難しい。

登場人物に固有名詞がなく、アルファベットと数字で表記されるのは想定内なんですけれども、人間に脅威を与える自然環境から隔絶した空間(「緑の壁」で囲まれた世界)で「員数」(市民のこと)が生涯を過ごす設定であるため、動植物の概念が人間の記憶からほとんど消えている。

必然的に通常の小説であれば多く記述されるはずの登場人物たちを形容する言葉までもが記号的、抽象的で(幾何学的表現も多用される)、視覚的に想像しにくいわけです。

また、登場人物の意図や行動も、直截的に表現されることはほとんどなく、「ん?こいつ、いつ登場したんだっけ」「あれ?こいつは今死んだってことかな」などと惑わされることたびたび。

しかし、ちりばめられた名称「国策新聞」「単一国」「員数」「恩人」「守護者」「時間律法表」は十分魅力的で、SF小説好きな読者であれば何とかついて行けるのではないでしょうか。

解説を読むと、ロシア文学史上の論争や芸術運動に対する批評や皮肉などもちりばめられているとのこと。私は読み取れなかった。無教養ですみません。

21世紀の今でも全体主義の脅威から逃れていない私たち、いつ「われら」となるかわかりません。本作は、まだまだアクチュアルといえるでしょうね。